●チョコレート

 チョコレートを、わが国において最初に商品として加工製造・販売をしたのは、東京両国
若松町の米津風月堂といわれている。
 明治4年(1871)、安政の不平等条約改正の予備交渉と、近代的な制度・文物摂取のため、
岩倉具視を全権大使に、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允、山口尚芳らの一行が欧米諸国に
派遣された。その際、パリに赴いた一行はチョコレート工場を視察している。
 彼らはこのチョコレートが後世のお菓子の世界でなくてはならないものになるとは想像も
しなかったであろう。しかし、米津松造は、これらの情報をしっかりキャッチ。いち早く研
究をはじめ、商品化に取り組んだ。
 米津松造が、チョコレートの製造をはじめたことは、明治11年(1878)12月21日の『郵便報
知新聞』に、
「菓子舗、若松町の風月堂にては、かつて西洋菓子を製出し、江湖(こうこ=世間、世の中)に
賞美せられしより一層勉励してなお、この度、ショコラートを新製せるが、一種の雅味ありと。
これも大評判」
 と報じられている。ショコラートとはもちろんチョコレートのことである。
 この記事を受けて、その直後の12月24日付けの『かなよみ新聞』(明治8年創刊・仮名読売
新聞改)に「貯古齢糖・洋酒入ボンボン」の項目を掲げ広告を掲載した。
 さらに、明治11年(1878)12月24日発行の『かなよみ新聞』と翌25日発行の『郵便報知新聞』、
さらに翌12年1月6日の『東京日日新聞』に次のような広告が掲載された。
「西洋菓子製所
鳳紋 賞牌
 ○西洋菓子各種
 ○新発明ボンボン 祝日用・飾り菓子・西洋酒入り          数種 種々効能あり
 ○新製・猪口令糖 菓物味入り
 ○機械製・有平糖 
 ○桃子糖漬
 ○柑子糖漬
 ○仏手柑糖漬   各缶詰
 ○新年辻占パピヨ 此品は、西洋各国にて新年宴会の折、戯むれに供
    するものにて至極面白きものなり。
 文化、日に開らけ、百事、洋風に依らざる無きに独り“西洋菓子(ケイキ)”の製法のみ我
国に有るを聞かず。日頃、該製造に思いを焦がす折節、昨年、内国勧業博覧会の挙あるに際し、
西洋人の良工を雇いて洋菓の数種を精製せしめ該場へ出品せしに殊の外、諸彦の愛顧を蒙り、
忝なくも鳳紋賞牌を付与せらるるに至れり。弊舗深く、感謝にたえず。依て尚一層、勉励新製
数種調進候間、従来販売する菓子と共に御賞翫あらん事を是祈る。
   東京日本橋若松町
    西洋菓子製造本舗 両国風月堂 米津松造」
 このときの米津風月堂のチョコレートは、輸入したチョコレート原料を加工したものであ
ると推定される。また、もともとチョコレートとは飲み物であったが、食べるチョコレート
が生まれたのがヴィクトリア王朝時代の1840年頃であることを考えると、米津風月堂がその
製造に関していかにトップを走っていたかがよくわかる。さらにその後、喫茶においても飲
むチョコレートを販売していたことも広告によりうかがえる。
 続いて、京橋木挽町・精養軒、新橋壷屋が自家特製加工品を使用し、明治30年代には、主
として輸入製品として、東京銀座亀屋、明治屋、函館屋、本郷赤門通り・青木屋などによっ
て売られ、その後、森永製菓もカカオ豆からチョコレート一貫製造をはじめていくことにな
る。

風月堂のチョコレートのことを小島政二郎は『砂金』という本の中で、 「私の子供の頃、父や母や、叔父さんに連れられて風月堂へ入った時の目鼻に感じる西洋の匂 いはワクワクする程嬉しかった。  ウエーファー(ウエハース)、ビスケット、チョコレートと名は同じでも、そこらで売っ ているビスケットやチョコレートとは味が違うのだ。日本のものではなくて、西洋の匂いが した。一度、驚いたことに、小学生の頃、遠足で飛鳥山へ行った時、茶店の小母さんが私の チョコレートの箱を見て、中のチョコレートを五つ程くれないかと云う。やると、自分の所 で売っている日本出来のチョコレートを一と箱くれた。その後、行く度に同じ小母さんが私 のチョコレートをせびりに来た。或時一と箱やったら、日本出来のチョコレートを五箱くれ た。  飛鳥山の茶店の小母さんすら、風月堂のチョコレートのうまさを知っていて、そんな交換 をしてくれた。実際、それ程うまかった。殊に、ワッフルのうまさ、素晴らしさ。ワッフル を買って貰った時の嬉しさ。嬉しさに胸のはずむ思いを未だに覚えている。手触りから、舌 触り、喉を通る時の、西洋の味と匂い、ビスケットやチョコレートよりも大きいし、柔らか いし、ジャムの甘い匂い、これこそ全部西洋だった」  と絶賛している。